翻訳と辞書
Words near each other
・ スタニスワフ・ボバク
・ スタニスワフ・ポニャトフスキ
・ スタニスワフ・ポニャトフスキ (1754-1833)
・ スタニスワフ・マチェク
・ スタニスワフ・マルサシュ
・ スタニスワフ・マルチン・ウラム
・ スタニスワフ・ミコワイチク
・ スタニスワフ・モニュシュコ
・ スタニスワフ・モニューシュコ
・ スタニスワフ・ラジヴィウ
スタニスワフ・ルボミルスキ (1583-1649)
・ スタニスワフ・ルボミルスキ (1704-1793)
・ スタニスワフ・ルボミルスキ (1722-1782)
・ スタニスワフ・レシチニスキ
・ スタニスワフ・レシチンスキ
・ スタニスワフ・レシニェフスキ
・ スタニスワフ・レシュチニスキ
・ スタニスワフ・レシュチンスキ
・ スタニスワフ・レム
・ スタニスワフ・レヴェラ・ポトツキ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

スタニスワフ・ルボミルスキ (1583-1649) : ウィキペディア日本語版
スタニスワフ・ルボミルスキ (1583-1649)

スタニスワフ・ルボミルスキ公爵ポーランド語表記:Stanisław Lubomirski, 1583年 - 1649年6月17日)は、ポーランド・リトアニア共和国の貴族(シュラフタ)。1647年より神聖ローマ帝国の諸侯(フュルスト)に叙せられ、「公」を称した。
== 生涯 ==
彼は1620年より王国クライチィ職(肉切り分け係)および国王秘書官を、1628年(1625年?)よりルーシ県知事を、1638年よりクラクフ県知事およびクラクフの王領地総代官をそれぞれ務め、クジェピシュ、ニェポウォミツェスピシュサンドミェシュ、ソンチュおよびザトル代官職を帯びた。
ルボミルスキは1609年スモレンスク包囲に参加した際、彼は自分が知事を務めるクラクフ県から、自分の命令に従う規律のとれた軍事部隊を率いていた。彼の部隊は1620年代になってクラクフ周辺で略奪行為を始めたリソフチツィ部隊を撃退している。ヤン・カロル・ホトキェヴィチの死後、彼はレギメンタシュ(下級軍司令官)として1621年のホチムの戦いで部隊を率いた(モルダヴィア・マグナート戦争)。また1634年にはスタニスワフ・コニェツポルスキの後任としてウクライナで2度目の軍指揮を経験した。1635年、ストゥムスドルフの和約締結の際にはスウェーデン側のクロード・ダヴォー伯爵と友情を交わした。
ルボミルスキはイエズス会を嫌っていたにもかかわらず、敬虔なカトリック教徒で多くの聖職者たちの支援者、聖職禄所有者であった。ヴワディスワフ4世カルヴァン派の王女と結婚させようとする計画にも反対したし、国王自身が熱中する対トルコ戦争の計画にも反対姿勢を示した。またクラクフ県およびサンドミェシュで人気のあった政治家イェジー・ズバルスキの親しい友人であったが、ルボミルスキ自身が彼と同じ選挙区からセイムの代議員として何度か立候補したために、友情は決裂した。
彼は父親から豊かな遺産を相続したが、1613年にアレクサンデル・オストログスキ公爵の娘で女子相続人のゾフィアと結婚したことにより、一族の財産をさらに富ませることになった。1642年までに、ルボミルスキは10の城、12の都市、300の村落と数多くの森、湖、製粉場さらには岩塩鉱脈を所有するに至り、当時の共和国で最も富裕なマグナートとなっていた。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スタニスワフ・ルボミルスキ (1583-1649)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.